谷井治療室のキネシオロジー日記
谷井治療室の院長の日記です。
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水野南北 開運の極意 2
今回も「水野南北開運の極意 1」に引き続きパート2を掲載いたします。

『人間一生の吉凶は皆ただその人の飲食による。恐るべきは飲食である。つつしむべきは飲食である。』

『飲食がもちまえより少ない人は人相が悪くても吉であり、相応の幸せを得、長生きし晩年幸福である。』

『飲食がもちまえより多い人はたとえ人相が良くても何事も順調に行かず、手遅ればかりで生涯気苦労が絶えず、晩年不幸せである。』

『少食で、厳しく定めている人は、たとえ貧乏して悪い人相であっても相応の幸せがあり、長生きして何事も大抵不自由することなく晩年幸せであり、ひ弱そうに見えても病気をすることがない。』

『大食であって、その上量も時間も決まっていない人は問題外で一生涯運はよくならず、ついに家庭をこわし、病気になる。』

『飲食に定めがあっても時々少しでも多かったり少なかったりすると、収入もまた多かったり少なかったりする。飲食が一定していて変化がないと収入もまた一定して変化がなく、ただ食事を一定して厳重に守るのが良い。』

『寿命の長い短いは、ただ人相だけでは定めにくく、平常の食事の量を調べて占うと万人に一人の失敗もない。』

『病気のない吉相の人であっても若い時から毎日贅沢な食事の人は年をとって胃腸の病気になる。』

『毎日仕事に精を出すだけでは立身出世するものではなく、一所懸命、倹約して、大食をつつしみ少しでも天から頂いている食物を延しこれを基礎として立身出世を計るより他はない。飲食に贅沢三昧をし、したい放題をして、立身出世を望むのは大馬鹿だ。返す返すも飲食をつつしむことが第一です。』

水野南北 開運の極意」より〜
 
次号につづく          
             
水野南北 開運の極意(1)
水野南北(みずのなんぼく)は、江戸の中頃に京都に住み、聖徳太子を教祖として尊び、さらに神道、儒教、仏教の三道を深く研究した。

尚、三年間、散髪屋の小僧になって頭の相を研究し、三年間、風呂屋の三助(さんすけ)〔銭湯で垢すりや髪すき等のサービスを提供する男性のこと〕をして体の相を研究し、三年間、火葬場の隠亡(おんぼう)〔火葬場において、死者を荼毘に付し、遺骨にする仕事に従事する作業員〕をして、死者の骨相を徹底的に究めるなど、東西の相法を研究するのみではなく、実地についても深く研究を積み重ね、百発百中当たらざるなしといわれた古今東西、類をみない権威者で、門弟、六百余人と称せられた。

水野南北 開運の極意」・・・・万に一の誤り無し

私は長年、ずっと人の人相を占ってきたが、ただ人相のみで判断すると
金ができ出世し長生きをする相の人で
貧乏し若死にをする人があり、
貧乏で若死にをする相の人が
実際では金ができ、
出世をし長生きをする人があって
なかなか当たらぬことが多く残念に思っていた。ところがある時
ふと食物が大事では?と気づき、
人の運 不運 寿命は
みな食物、飲物をつつしむか
つつしまないかによって決まるのではあるまいかと、ためしてみたところ
一年前には大難が来るようになっていた人が、
断然飲食いをつつしんだため
大難をまぬがれただけではなく
かえって良いことがあり、
生涯貧乏である相の人が
飲食をつつしんだため相応の富貴を得て、
今は大変出世している人があり、
前々から病弱短命と判断していた人が、毎日飲食をつつしんだため、心身共健康で
長生きしている人が少なくなく、
こんな例をあげると数えきれない程である。
それからは、人を占うのに
まずその人の飲食の様子をきいて
それによって一生涯の運、不運を判断したところ、万人に一人の失敗もないことがわかり、
人の運命は全く飲食一つであると確信し、私の相法の極意であると定めた。
そしてこれを人にすすめるだけではなく、
私自身が率先して実行し
一生涯、唯、麦を一日一合五勺だけとし、
(現代では玄米一日一合から一合五勺)
酒は大好物だがこれも一日一合と定めた。
これは唯自分のためばかりではなく
みんなが一日も早く飲食をつつしんで
開運幸福長寿を得られるように
切望してやまないからであった。

             「水野南北 開運の極意」より〜

    次号に続く・・・・・・・

霊界から戻ってきた少年の話
 人は生まれ変わるのだろうか?霊界から再生した少年の話が江戸時代にあった。文政五年に国学者の平田篤胤が聞き書きした「勝五郎再生記聞」というのがそれである。
 
 去る文政五壬牛年十一月の頃、当時八歳だった勝五郎は姉ふさ、兄乙次郎と田のほとりで遊んでいた際、ふと兄に向かって「兄ちゃんは元はどこの誰の子でこの家に生まれてきた?」と尋ねた。兄が「そんなこと知るものか」と答えると、また、姉に向かって同じように尋ねた。

「どこの誰の子だったかなんてわかるわけないじゃないか。おかしな子だね」

 ふさは馬鹿にしたが、勝五郎はなおも得心しがたい様子だった。

「それなら、姉ちゃんは生まれる前のことは知らないのか?」

「あんたは知ってるの?」

「俺はよく覚えてる。元は程久保村の久兵衛という人の子で藤蔵という子だった」

「……なに、あんた。おっとうたちにいうからね」

 勝五郎は顔色を変え、泣きながら謝った。

「ごめん。頼むからいわないでくれよ」

「それならいわない。ただし、悪いことして止めても聞かないときは絶対いいつけるからね」

 こうしてその場は収まった。

 その後、勝五郎が喧嘩をするたびに「あのことをいうよ」というとすぐにおとなしくなった。両親、祖母が怪訝に思ってふさにそれは何のことかと尋ねたのだが、ふさは告げようとはしなかった。さては親に隠れてどんな悪いことをしているのかと懸念した両親らは、勝五郎に隠れてふさに強いて白状させた。ふさは隠しきれずにありのままを語ったのだが、両親らはますます膨れあがる疑念を抑えることができず、勝五郎本人をなだめたりすかしたりするなどして、ようやく口を開かせた。

 八歳の勝五郎が語るには、「俺は元々程久保の久兵衛の子でおっかあの名はおしづといった。俺が小さいときに久兵衛は死んで、その後に半四郎という人が来ておっとうになり可愛がってくれたが、俺は六歳の時に死んだ。その後、この家のおっかあの腹に入って生まれた」というのである。
 それからしばらくして、勝五郎がどうしても程久保村へ行きたいと言うので祖母は勝五郎の手を引いて程久保村を訪れたそうである。(程久保と中野村は山一つ隔てている。距離は約一里半。6kmほどである。)

 この家か、あの家かと見当を付けかねていると、勝五郎が「まだ先だ、まだ先だ」といいながら先に立った。「この家だ」勝五郎は祖母より先にある家に駆け入り、祖母もそれに続いた(これより先に勝五郎は「程久保の半四郎の家は三件並んだ真ん中の家で、裏口から山に続いている」と述べている。そのとおりだったという)。家の主人の名を問うと半四郎だという。妻の名も尋ねたところ、しづと答える。半四郎夫婦は、かねて人伝に聞いていたことではあるが、祖母の話を聞いてあるいは怪しみ、あるいは悲しみ、ともに涙に沈んだ。夫婦は勝五郎を抱き上げ、つくづくと顔を眺めた「亡くなった藤蔵が六歳の時によく似ているよ」勝五郎は抱き上げられながら向かいの煙草屋の屋根を指さした。「以前にはあの屋根はなかった。あの木もなかった」みなそのとおりだったので、夫婦はますます驚いた。
 
 霊界は本当に存在するのだろうか。勝五郎が言うには、「前世のことは四歳ころまではよく覚えていたけどしだいに忘れてしまった。
死ぬほどの病ではなかったのに薬を飲めなかったので死んでしまったんだ。」

 「息が絶えたときには何の苦しみもなかったけど、そのあと時々苦しいことがあって、その後はすこしも苦しくなくなった。
体が桶の中へ強く押し入れられると、自分は飛び出してその傍らにいて
山に葬られるのに行く時は白く覆った逗子の上に乗って行った。
その桶を穴へ落とし入れたときその音の響はとても心にこたえて、今でもよく覚えてる。」


 「僧たちがお経を読んでも、そんなものは自分には何の役にも立たず、憎らしく思うだけだった。
家に帰って机の上にいたんだけど、家の人に声をかけて話しても聞こえていないようすだった。」

 勝五郎の話では、自身は存在するのだけど、人からは見えず、また人に話しかけても聞こえない様子だという。仕方なく、家に帰って机の上にいたが、そのとき、白髪を長く垂らし、黒い着物を着た老人に「こっちへ来い」といわれるままに後を追い、どこともわからない段々と高い綺麗な草原に行って遊んだ。花がたくさん咲いているところで遊んだとき、その枝を折ろうとすると小さい烏が出てきてけたたましく威されたという。


 こうして、遊んでばかりいたのだが、例の老人と一緒に家の向かいの道を歩いていると(源蔵の家のことである)、老人がこの家を指して「この家に入って生まれよ」といった。教えられるままに老人と別れ、庭の柿の木の下に三日ほど立って様子をうかがっていたが、窓の穴から家の中に入り、竈の側にまた三日位いた。そのとき、おっかあがどこか遠いところに行ってしまうという話をおっとうとしていたのを聞いた。


 (源蔵によればこれは勝五郎が生まれた年の正月のことで、ある夜寝間で「このような貧乏暮らしに子が二人いては老母を養うにも事欠く。お前は三月から江戸へ奉公に出るといい」と夫婦で話したことがあるという。このときには老母には話していなかったのだが、二月には告げ、三月になって妻を奉公に出したところ先方で懐妊していることがわかったため暇を乞い帰郷させた。孕んだのは正月で、月満ちて同十月十日に勝五郎は生まれた。このことは夫婦以外には知るはずがないという。懐胎したとき、生まれたとき、その後も特に不思議なことはなかったということである)

 その後、おっかあの腹に入ったように思うが、よく覚えていない。腹の中ではおっかあが苦しいだろうと思ったときは体を脇に避けたりしたことがあった。

 生まれたときはまったく苦しくなかった(程久保村で藤蔵が文化七年に死んでから六年目に当たる)。この他どんなことも四つ、五つまではよく覚えていたけれども、だんだん忘れてしまった」(以上、直話を聞き取り)